林三從とわたし

STORY 01林幸子(ホワイトノイズ 林三從ミュージアム館長)
林三從の作品を常設した
「ホワイトノイズ」と
過ごした25年
林幸子(ホワイトノイズ 林三從ミュージアム館長)

林三從(はやしみより)が亡くなった後、その旧アトリエを活かした「ホワイトノイズ 林三從ミュージアム(以下、ホワイトノイズ)」が2003年に開館しました。ここには彼女の作品をはじめ、メモやスケッチ、「備前アートイヴェント*」の資料などが保存、展示されています。彼女の足跡を求め訪れる人々を受け入れてきたのが、ホワイトノイズの館長であり、林三從の弟の妻・林幸子さんです。今回はホワイトノイズにお邪魔し、幸子さんが見てきた林三從の魅力と、ホワイトノイズについて伺います。

*備前アートイヴェント:1987〜1997年、当時人口約4.5万人の小さな地方都市・岡山県備前市を舞台に11年にわたり開催されたアートイベント。林三從がプロデュース、備前市商工会議所が事務局、地域の人々がクルーと呼ばれる運営ボランティアとして集い、国内外から招聘したさまざまなアーティストと共に、1年に1日限りの〈場〉をつくり上げた。

作品と人のつながりを通して、自然な流れで館長に

ホワイトノイズの外観

ここ「ホワイトノイズ」と、西隣にある「アンモナイト」は1979年に三從さんが自分でデザインを考えて建てたものです。どちらもコンクリート造りで、この辺りでは珍しいモダンな建築だったから、初めて見た時はとても驚いたわ。ね、南の窓からきれいに光が差し込んできて、すごく素敵な建物でしょう?ホワイトノイズはアトリエであり、備前アートイヴェントの出演者たちが集まる場であり、映画上映会等のイベント会場であり…と、さまざまな場として活用されました。アンモナイトは、三從さんが企画を練ったり、資料をまとめたり、事務作業などを行うため20年近く使用され、彼女の制作にとって重要な場となっていました。

ホワイトノイズの館長をすることになったのは、2000年に三從さんが亡くなった後、彼女と交流が深かったアーティストの小坂真夕さんと伊丹裕さんが遺品整理に来てくれたことがきっかけだったわね。後に『林三從アート集成 MIYORI PROJECT』を編さんしてくれた二人です。彼らが三從さんの作品やパンフレット、メモなどを東京に運び、丁寧に額装した上で返送してくださったのを見て、せっかくすばらしい形に仕上げてくれたのだから、より多くの人に見てもらいたいと思ったんです。そういうわけで、ホワイトノイズの館長をするぞと意気込んだわけではなく、ごく自然な流れでこの場所を開くことになりました。

三從さんの作品って、時代によって全然違うのよ。美術の道を志した20代の頃は油絵などの絵画が多いのだけど、「岡山青年美術家集団」として活動しはじめた1963年頃は、箱をモチーフにした立体オブジェをずっと作っていてね。「第二回 岡山青年美術家集団展」のオープニングイベントでは、「この人を見よ!!」と書いた紙を貼ったガラスケースを置いて中に三從さん自身が横たわり、それを作品とする面白い試みも実施していました。その後、東京でも展覧会をするようになると同時代のアーティストたちからも影響を受けて、美術・音楽・映像など、いろんなジャンルのアートを組み合わせた新しい表現や、会場に居合わせた人も作品に参加するパフォーマンス作品に取り組むようになっていって。

ある時は、クレーンで車を吊るして落下させたり、小型航空機で岡山の上空から植物の種を播いたり、過激なこともやっていましたね(笑)。そうして最後は「備前アートイヴェント」のディレクターを11年務め、たくさんのアーティストや地域の方を巻き込んだイベントを開催しました。

ホワイトノイズでは、それぞれの時代に発表した作品や、イヴェントで使用したパンフレット、ポスターなどを幅広く展示しています。

額装された作品が展示されている、ホワイトノイズ1階。2階にも立体作品などが展示されている 額装された作品が展示されている、ホワイトノイズ1階。2階にも立体作品などが展示されている

記憶に残っているのは、誰からも慕われた楽しい絵の先生

私は、三從さんの弟である夫と東京で出会い、結婚を機に初めて備前市片上にやってきました。夫から、「うちにはちょっと変わった姉がおるからよ」と聞いていたので、どんな人なんだろう、とずっと興味津々だったんです。

実際に会ったのは、私たちの結婚式だったのかな。式当日、三從さんはフォトグラファーをしてくれました。結婚式だけど彼女は礼服ではなく、お洒落なシャツとパンツを着こなし、それもすんなり周りに受け入れられてしまう。当時私の周囲にいなかったような人だったわね。そんな三從さんと親戚になれて、すごく嬉しかったです。

聞けば、昔から地元の有名人だったみたい。高校時代、片上の駅では「三從さんが来た!」と男の子たちが色めき立ち、こっそり彼女の姿をのぞき見ることもあったそうですよ。制服のスカートは履かず、パンツスタイルで登校していた珍しい女学生だったんですって。演劇にも取り組み、片上の映画館の舞台で「鶴の恩返し」を演出、上演したとも聞きました。映画監督を志した時期もあったとか。

インタビューを受ける林さん

三從さんとお話しする時間は、何しろ楽しかった!てらいのない人で、何を話そうかなんてこちらが悩まなくていい。日常の世間話はもちろん、どんどん面白い話題が出てくる人でした。

三從さんは、親戚から受け継いだ釣具屋の経営もされていたんですよ。5分も歩けば片上湾があるから、釣り好きなおじさんたちが魚の餌をよく買いに来ていたの。濃いめの岡山弁が飛び交うおじさんたちとの会話は、聞いているだけで楽しかったですよ。もちろん、近所の商店街の店主たちやそのご家族とも仲が良く、片上のいろいろな人たちが「三從さんと話したら楽しい」と言っていましたね。誰と話しても話題に事欠かなくて、裏表がないところも魅力的でした。

釣具屋を営む一方で、アーティストとして作品を作っては発表をしていると聞いていましたが、一緒に住んではいなかったから、制作風景を見たことはなかったですね。私にとって一番なじみのある三從さんの姿は、彼女が運営していた「林美術教室」の先生として子どもたちに絵の指導をする姿。私も通っていましたから。

教室で描くのは、皿や果物の静物画、風景画などが中心でした。じっくり描いて、これで完成だなと三從さんに見せると、いつも最後に彼女の一筆が入るんです。線や影をササッと加えるだけで絵ががらっと変わって、作品全体が生き生きしてくる。人として魅力的なだけではなく、素晴らしい絵の才能を持っていることも知りました。

林三從の描いた、備前市伊部の風景。下の絵には、岡山県備前市の名産品「備前焼」を焼成する際に使用する窯道具「サヤ」が描かれている 林三從の描いた、備前市伊部の風景。下の絵には、岡山県備前市の名産品「備前焼」を焼成する際に使用する窯道具「サヤ」が描かれている

美術教室の生徒は、園児から高校生までの幅広い年齢層の子どもたち、美大などの受験向けにデッサンを練習する人、そして大人、と合計100人以上。指導方法は独特で「この辺りの潰れそうな店を描いておいで」って外へスケッチに行かせることがあったり(笑)。そうして完成した絵を、保護者がそのお店にお願いして飾ってもらう─そうやって関わる人たちを巻き込んだ面白い動きが生まれるんです。生徒はもちろんのこと、保護者たちからも大変慕われていました。

三從さんが亡くなった後、美術教室の生徒たちのために片上で改めて告別式を行いました。そうしたら、斎場で初めて三從さんの下の名前を知ったのか「あれ?先生って女じゃったん?」なんて言う子がいて、もう衝撃(笑)。ずっと男性だと思っていたみたい。でも、そうよね。男性だとか女性だとか、そういうのを一切感じさせない人だったから。ずっと昔からジェンダーを越えて生きてきたと思うし、周囲には、彼女に「女性だから」なんて言う人はいなかった。だから、それは嬉しいことね。

その後すぐ、美術教室の保護者の方々が中心となり、片上の旧大型商業施設「アルファビゼン」のホールで生徒たちの絵の展覧会が行われました。ホールいっぱいに100枚近くの絵が並ぶ様子はもう、感動的で。今ではその生徒たちが成長し、イラストレーターやアクセサリーデザイナー、学芸員、会社経営者など、さまざまな分野で活躍していたり。もし三從さんがこの話を聞いたなら、きっと嬉しかっただろうなと思います。

1986年に開かれた児童絵画展の様子(『林三從アート集成 MIYORI PROJECT』(鳥影社)より) 1986年に開かれた児童絵画展の様子(『林三從アート集成 MIYORI PROJECT』(鳥影社)より)

遺品整理を通して知った「アーティスト・林三從」

2000年の夏頃、三從さんが胃がんを患っていることが判明し、治療を開始したものの、病状は徐々に悪化していきました。残された日がそう長くないことを覚悟する中で、晩秋のある日、私と夫は三從さんから病室に呼ばれました。三從さんは夫に「あのモノ(作品)は、あんたにはガラクタじゃろうなぁ。後のことは、任せるよ」と言ったんです。私はそれを深く考えずに聞いていました。

同年12月28日、三從さんは亡くなりました。そして、年が明けてから、彼女の友人たちに手紙が届いたんです。自分が亡くなったらみんなに送るよう、三從さんが知人に頼んでいたんですね。手紙には、自身が末期がんだったこと、みなさまへの感謝とお礼とともに、こう書かれていました。

死と直面した日々刻々の中それぞれ一人一人の顔と表情(嬉しそうな時。つらそうな時・・・。悔しそうな表情。話し方。癖。性格。)などを思い出し、心の中にそれらを畳み込んで豊かで馥郁(ふくいく)とした気持になったあと素粒子となって空中庭園へ舞い上がりたい。

受け取った友人たちの中には、それを本物の遺書だとは思えず、「また何かのアートイヴェントの一つか?」と考えた人もいたそうです。私たち親族は何も知らなかったので、大変驚きました。

数日が経ってアトリエに行くと、夫は作品の山を見て「ほんまにガラクタじゃな」なんて言って、本当に全部捨てようとするのよ。とはいえ私も、どうしたらいいのかと呆然としていた矢先に、東京にいる小坂さんと伊丹さんから「僕たちがそちらに行って整理しますから、何も手を付けず、片付けないでください」、「紙の一切れでも、捨てないでください」と電話がきたんです。二人は、残された作品たちを一つひとつ見て、全部整理していってくださって。ちょうどその頃、私も時間があったので、せっかくならと作品以外の遺品整理にも着手し始めたんです。

アンモナイトで遺品や資料の確認を行う林幸子さん アンモナイトで遺品や資料の確認を行う林幸子さん
小坂さんと伊丹さんの手で額装された作品。複数人に送られたメール・アートが作品としての輝きを増した 小坂さんと伊丹さんの手で額装された作品。複数人に送られたメール・アートが作品としての輝きを増した

小坂さんと伊丹さんはスケッチブックや走り書きのメモまでピックアップして、東京に持ち帰りました。それらは一つひとつ丁寧に額装されて「作品」となり、伊丹さんが運営する東京のギャラリーに展示された後、ホワイトノイズに戻ってきました。

残された物は確かに多かったんですけど、整理をする時間はすっごい楽しかった!苦だと思ったことはありません。だって、東京での展覧会の芳名帳に「岡本太郎」の名前があったりと、私でも知っているような人の名前がポンポン出てくるの。三從さんがアーティスト仲間と撮影した写真にも篠原有司男や小島信明などの著名な人たちが写っているし、すごい、すごい、と感激しながら整理していましたね。

三從さんは「こんな人が来たんだぞ」なんて一切自慢しないし、教えてもくれないから、何も知らなかったの。彼女が亡くなってからいろんな方との多くのつながりを知り、本当に驚きました。特に備前アートイヴェントでは、備前市片上のこんな田舎に、三從さんのためならって有名な演奏家やパフォーマーが何人も来てくれたんですよ。

アメリカで活躍した実験音楽の第一人者ジョン・ケージからの手紙。林三從が備前の名産品を送った際の返信として「MIYORI HAYASHI」のアルファベットを使ったアナグラムのような文面が届いた アメリカで活躍した実験音楽の第一人者ジョン・ケージからの手紙。林三從が備前の名産品を送った際の返信として「MIYORI HAYASHI」のアルファベットを使ったアナグラムのような文面が届いた

没後に改めて注目を集め、海外での展示も

2003年にホワイトノイズが林三從ミュージアムとしてオープンすると、『林三從アート集成 MIYORI PROJECT』の制作に携わったメンバーや寄稿してくださった方、全国の美術館の学芸員の方が来館してくれました。並行してその頃、岡山を拠点に活動した前衛作家として、三從さんが改めて注目されるようになったんですよ。

2002年に開催された岡山県立美術館「戦後岡山の美術―前衛たちの姿―」展では、戦後岡山の前衛芸術家の一人として紹介されました。また、2012年に奈義町現代美術館で開催された「林 三從展~みよりが遺したもの~」では、三從さんの作品からメモまで紹介し、生涯をたどる回顧展を開催していただきました。その翌年の2013年は倉敷市立美術館で、同じ岡山出身で親交が深かった現代音楽家の塩見允枝子さんとの二人展「出来事がアートになるとき―特集展示・塩見允枝子と林三從―」も開催されています。これらの展覧会をきっかけに三從さんの存在を知り、ホワイトノイズを訪れる人も増えました。

栃木県立美術館の学芸員だった小勝禮子さんは、日本の女性美術家にスポットを当てた企画展「前衛の女性1950-1975」(2005)で三從さんを紹介したいと、作品を借りにきてくださいました。その後、ポーランドのザヘンタ国立美術館から問い合わせが入り、日本の前衛美術をテーマとした企画展で三從さんの作品も紹介されることになりました。

他にも、アメリカのニュージャージー・シティ大学教授の由本みどりさんが、1960年代に三從さんが制作したオブジェ作品《BOX》に着目した論文を発表されました。その影響もあって海外から作品の購入依頼があり、三從さんを評価する人が世界にいることを知って、驚きましたね。

かといって私は、特別なことを何もしていないんです。伊丹さんに相談したら、「作品を飾るにしても、磨いたり拭いたりしなくていいし、日焼けも気にしなくていい。月日と共に自然と朽ちていく様子も含めて見せる、それが三從さん流なんだから」って、アドバイスをもらって。だから、アンモナイトで三從さんが使っていた机や棚、雑多に置かれた灰皿やサングラスも整理せず、そのままにしています。

アンモナイトにある林三從さんの机の上に置かれた私物のサングラスや、灰皿として使っていた空き缶も、今もそのままの姿で残っている アンモナイトにある林三從の机の上に置かれた私物のサングラスや、灰皿として使っていた空き缶も、今もそのままの姿で残っている

林三從とホワイトノイズが、今も誰かを動かしている

かつてホワイトノイズは、音楽の演奏会など人が集まる場として使われていたので、三從さんが亡くなった後もさまざまな場として活用してきました。

ミュージアムがオープンする前の2002年には、小坂さんと伊丹さんが東京のギャラリーで企画・展示をした「林三從プロジェクト展」の第二弾を開催しました。東京で展示した内容をそのままこちらに持ってきて、初期の版画作品やコンセプチュアルアートの資料などを展示しました。

2006年には三從さんの七回忌に合わせて特別公演を開催しました。島根県の即興演奏家である歌島昌智さんのピアノ演奏と、ダンサーの明石めぐみさんと在津明美さんが踊るイベントを行いました。続く2007年には三從さんが残した言葉を岡山演劇界の第一人者である古市福子さんが読み、就実大学教授であり、コンテンポラリーダンスの即興表現に定評があるダンサーの岡本悦子さんが踊る「WHITE NOISE特別企画〜みよりとことば〜」を開催しました。

三從さんの存在を感じるこの場所には、いつも協力的な人が集まってきて、力を貸してくれる。だからいろいろなイベントが実施できたんです。中には、三從さんを詳しくは知らないけれど、ホワイトノイズを気に入って演奏会をしたいと言ってくれたアーティストもいて、備前市出身のピアニスト、友光雅司さんのピアノリサイタルは10年ほど続きました。

また、片上商店街にはひな人形が並ぶ春の恒例行事「備前片上ひなめぐり」があり、2025年で25回目を迎え、片上を代表する一大イベントになりました。実はこれ、生前の三從さんが岡山県真庭市の「勝山のお雛まつり」を見て、「増えてきた空き店舗を利用して、こういうのをやってみたら?」って片上商店会の集まりで言ったのが始まりなんです。三從さんのお通夜に来ていた近所のおかみさんたちが話し合って「あの時三從さんが言っていたこと、やってみる?」って。三從さんのひな人形もあったから、ホワイトノイズでも毎年開放して展示していますよ。もちろん、三從さんのアート作品と一緒に。

25年続く「備前片上ひなめぐり」。毎年3月に、約4500体ものひな人形が宇佐八幡宮の大階段や街中にずらりと並び、大勢の観光客でにぎわう 25年続く「備前片上ひなめぐり」。毎年3月に、約4500体ものひな人形が宇佐八幡宮の大階段や街中にずらりと並び、大勢の観光客でにぎわう

田舎である片上を、愛していた

三從さんって結局ここ、片上から動かなかったでしょう。東京だけでなく、イギリスやニューヨークにも行ったけれど、いつも戻ってきた。田舎である片上を愛していたんですよね。備前アートイヴェントのキャッチフレーズも「どイナカでどアート」だし。地元を愛する気持ちが彼女と関わった人たちの心にも伝わって、次の誰かの原動力になっているのかもしれないですよね。

そうそう。生前、三從さんからは何も頼まれなかったけれど、こうしてイベントに協力したり、膨大な量の作品や資料を改めて広げたり、少しずつ整理してしまう私がいるんです。だって、楽しいから。ホワイトノイズやアンモナイトに来たら、いつも新しい三從さんの言葉のメモを見つけられるし、それを読むと、こんな言葉があるんだって思える。ここに来る度に、私はずっと生き生きとしていられるの。

そうやって25年もの間ホワイトノイズと過ごしてきた私でも、三從さんの作品が難しすぎて、分からないことだらけ。だから、アートに詳しくなくていいんですよ。作品や資料を見て、何か感じてもらえたらいいんです。誰でも気負わずここに来て、ちょっと感想でも伝えてくれたら嬉しい。私が望むのは、それだけですね。

取材・執筆:藤田恵
写真:藤村ノゾミ、南裕子
編集:小林繭子、南裕子

※記事の内容は、掲載時点のものです

林幸子/Sachiko Hayashi

林幸子/Sachiko Hayashi

秋田県出身。短期大学を卒業後、東京で総合商社に勤務。1970年に林三從の弟と結婚し、岡山県備前市片上へ移住。2000年に義姉である林三從が亡くなった後、彼女の作品をより多くの人に見てもらいたいと、2003年に彼女のアトリエを「ホワイトノイズ 林三從ミュージアム」としてオープン。館長を務め、資料の管理や来館者のアテンドを担う。片上地域の行事にも積極的に協力し、イベント毎に同館を開放している。

ホワイトノイズ 林三從ミュージアム

ホワイトノイズ 林三從ミュージアム

林三從が実家の敷地内に作ったスタジオを活かした私設美術館。油絵や立体作品、メール・アートなどの幅広い作品をはじめ、生前のメモやスケッチ、備前アートイヴェントの資料や機材を展示している。片上エリアのイベントなどに合わせて無料開放する他、事前予約に合わせて開館し、館長の林幸子さんがアテンドもしている。完全予約制。

TEL:o9o-6837-1562(館長・林直通/oを0にして発信してください)

※最新の情報は、上記リンクよりご確認ください

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